『アサヒカメラ』誌で2007年11月号月より、私の連載がはじまりました。
日本の伝統の中で「極意」がどう理解され、目指されてきたかを見つめながら、それを作品をつくる上でも役立てたい、という願いをこめて、連載のタイトルは『極意で学ぶ写真ごころ』というものです。
初心者から上級者までを対象に、写真術の基本中の基本でありながら、極めて大切な「極意」を伝えながら、絵を描くこころを「絵ごころ」と呼ぶように、写真をつくる心である「写真ごころ」を求めていくものです。
写真にも絵のように、写真ごごろがあります。絵ごころが想像力の表現ならば、
写真ごころは直観の産物です。ともに「テーマをどう捉えるか」という主張であり、発想やものの見方のスタイルといえますが、絵とは違い、写真では、線の代わりに光を使います。まずは、光をどう捉まえるか、第一回目では5ページで「露出の極意」を伝授しました。
続く11月20日発売の12月号では、露出の極意を実践しながら、写真の「花」とは何か、を考えながら、写真ごころをいかに発揮するか、作品づくりを通して学んでいただきます。
これから連載を通して、多くの方々に、写真術のとっておきの極意と写真をつくる楽しさを伝えていきたいと思います。
2007年11月吉日
伊藤美露
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「写真ごころ」の入り口とは?
『アサヒカメラ』連載についての解説 2008年3月号
現在『アサヒカメラ』で連載している「極意で学ぶ写真ごころ」は、日本文化の「極意論」と絡めて、「写真ごころ」とは何かを考えるエッセイを冒頭に、「基本」でありながら、「極意」である実技を伝授する講座です。
写真ごころとは、写真における表現をめざす態度であり、現実の先に永遠なるものを視ようとする思いのことですが、今月号(3月号)では、「不射の射」を考えてみました。
「不射の射」といえば、「射らずして射る」という、まさに神業の世界です。
大正時代の弓道の大家・阿波研造師は、線香で照らしただけの暗闇の中で二本の弓矢を放ち、一本目は的の真ん中に命中。二本目は一本目の筈に当たり、一本目を引き裂いていた、という逸話があります。師は「それ(仏)が射た」と語りました(ドイツの哲学者のオイゲン・ヘリゲルの著作『弓と禅(日本の弓術)』より)が、「仏が射る」とはすなわち、仏と呼ぼうが神と呼ぼうが、宇宙本体の大本の力による業、という意味になるでしょうか。武道では、古来より中国の神仙術のごとき、こうした離れ技を伝えています。
もとより、達人の世界は、常人の想像を絶する世界ですが、芸術の創造行為も、どこかこうした人智を越えた力の助けを得ています。いわゆる芸術のインスピレーションの源がどこかと考えると、それは自然の生命力だったり、さらに現実の時空の先に広がる次元(無意識)からの働きかけによるものです。
詩人が万物から「声なき声」を聴くように、画家は見える世界を通して、その先にある「見えない世界」を視ようとします。
私にとっては、絵も写真とは、自分の意識をそうしたより大きな世界に結びつける「こころの窓」の役割を果たしています。
「不射の射」とは、写真においては、「撮らずして撮ること」「視ずして視ること」と『アサヒカメラ』誌に書きましたが、それを追体験することが難しいようでしたら、一心に何かに打ち込んでいる自分を想像してみてください。
「無我夢中」という喩えのとおり、音楽を演奏するとき、絵を描くとき、詩を綴るとき、踊りを舞うとき、スポーツで記録に挑んでいるとき…でも、何でもいいのです。その時に、我を忘れることで、音楽そのもの、絵そのもの、詩そのもののエネルギーに自分を投げ入れ、どこか「永遠なるもの」に繋がっていく感覚が得られれば、それが「絵こごろ」であり「写真ごころ」「詩ごころ」の入り口となるのです。
『アサヒカメラ』の小連載では、極意論を語りながら、技に託された精神性を、また写真ごころについて考えながら、こうした芸術の中に宿された永遠性を語っていきたいと思います。
伊藤美露
2008年3月1日